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日本新聞2017年4月12日、4205号より
  
緑フォーラムが訪中、中国友諠促進会と交流
侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館で殉難者追悼会、残留孤児養父母に対する感謝の交流会を開催。戦争反対の運動が真の日中友好築く
  
 4月1日から6日まで、中国残留孤児問題フォーラム(呼びかけ人・中島幼八さん)実行委員会の企画で、「中国旧『満州』謝恩と巡礼の旅」が実施された。参加者は41名で、団長は北中一永さん、副団長は三橋牧さん(緑フォーラム代表)である。緑の党・対馬テツ子党首をはじめ、緑フォーラムから13名が参加した。この企画は中国友諠促進会による深い配慮の元、実現したものである。
 4日の「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」(中国を侵略した旧日本軍七三一部隊の残虐行為についての資料館)での献花、「謝罪と不戦平和の誓い」石碑前での殉難者追悼会、日本人残留孤児を育ててくれた養父母への感謝セレモニーについて、新華社はじめ各機関が報じた。
  
「撫順の奇蹟」を生みだした撫順戦犯管理所
 2日、「撫順戦犯管理所」を見学。ここはかつて日本軍が中国の愛国軍民を収監するために1936年に建てた撫順監獄だった。日本の敗戦後、シベリアに抑留されていた日本人捕虜の内、969人が1950年、戦犯として中国に引き渡され、同年7月から1964年3月まで、ここに収容された。
 毛沢東中国共産党主席、周恩来中華人民共和国政務院総理の配慮のもと、侵略した人間が、侵略戦争に反対し、世界平和を推進する人間へと再生する「撫順の奇蹟」を実現した場所である。「まず全人類を解放してはじめて、無産階級自らが解放される」という理念に貫かれており、歴史的偉業である。
 元戦犯たちは人道的な待遇を受け、かつて、日本軍が中国人の処刑場として使っていた広場は、元戦犯達の健康を維持する運動場となった。強制労働もなく、ただ戦時中の「罪」に向き合うよう求められただけだった。
 元戦犯達は次第に中国人民に対する虐殺や生体実験について手記を書くようになった。
 1956年、軍法法廷で45人の戦犯が起訴免除で即日釈放。起訴された有期刑の戦犯も刑期満了を待たず、1964年までに全員日本に帰国させた。
 李偉副館長と接見し、管理所前で荒野座の木村千栄子さんが中国語で「松花江上」を思いを込めて歌い上げた。この歌は、1931年9月18日の日本軍による謀略、柳条湖事件で故郷を追われた中国東北部の人々の深い悲しみと怒りを託した歌で、今も中国で歌い継がれている。
  
日本軍による平頂山虐殺の現場を訪ねて
 1905年、日露戦争に勝利した日本は撫順炭鉱の採掘権をロシアから奪い、中国東北部で残虐な植民統治を行った。
 1932年9月15日深夜、中国遼寧民衆自衛軍は撫順炭鉱を占領していた日本人を襲撃。日本軍は、自衛軍が通過した平頂山村、栗家溝村、千金堡村の村民が通過を報告しなかったのは匪族のスパイと決めつけ、村ごと燃やしつくすことで抵抗を阻止することを決定。9月16日午前、村民を平頂山の麓に集めて銃殺、村を焼き払い、三村で3000人以上が虐殺された。
 撫順市は1970年から発掘を開始。国辱を忘れず、参観者が供養できるよう「遺骨館」を開館。家族を守るように三層に折り重なった遺骨、大きく口を開けた遺骨、赤ん坊の遺骨…。無念にも虐殺された村人たちの叫びが聞こえる。再び、日本がこのような残虐な道を歩まないよう、遺骨は私達に語りかけている。
 訪中団は献花を行い、殉難者へ黙祷を捧げた。
  
日本人こそ忘れてはならない九・一八
 3日、“九・一八”歴史博物館を見学。たくさんの親子連れ、若者、若い兵士たちも見学に来ていた。ここには江沢民の書「勿忘“九・一八”」がある。
 1931年9月18日夜、関東軍独立守備隊川島中隊の河本末守中尉と部下が、瀋陽市郊外の柳条湖におもむき、あらかじめ用意した小型爆弾に点火し、「満鉄」線路で爆発させ、中国兵の射殺死体を逃げるかっこうで配置。関東軍は「中国軍が満鉄線を爆破したので応戦」と発表し、中国東北侵略を開始。
 この日から、日本侵略軍は次々と大虐殺を行い、2000万余の無辜の中国人民の命を奪った。日本人こそ忘れてはならない日なのである。
  
第七三一部隊 罪証陳列館で追悼会
 4日は中国の清明説。訪中団はこの日、「侵華日軍第七三一部隊部隊罪証陳列館」を見学し、献花、殉難者追悼会を開催。
 七三一部隊は国際条約に違反した、極秘の細菌兵器部隊。残虐極まりない人体実験を行った場所である。1936年にハルビン市平房区に作られた巨大な細菌製造工場で、部隊長石井四郎のもと、細菌研究、実践研究、防疫給水研究、細菌製造が任務とされた。軍医他、日本国内の大学医学部や民間研究所から派遣された研究者が集められた。
 ここには特設監獄があり、部隊撤退の日まで3000人以上の人々が送り込まれ、この「死の工場」から生きて出た人はいなかった。「マルタ」と呼ばれ、中国兵捕虜の他、朝鮮人、ロシア人、女性も犠牲となった。
 「謝罪の碑」前で追悼会が行われた。元残留孤児、葛西康男さんの書「反対戦争 熱愛平和」が掲げられ、あいさつがあった。北中団長から「清明節の誓い」が読み上げられ、不再戦の決意を参加者一同確認した。
 荒野座・木村千栄子さんが「松花江上」、山田とも子さんが「鶴」を歌い、日本軍の残虐な行為により無念にも命を奪われた幾千幾万の御霊に捧げた。
  
日本人残留孤児 養父母に対する感謝のセレモニー
 日本人残留孤児を育ててくれた養父母に感謝するセレモニーでは、元残留孤児、中島幼八さんから基調報告が行われた。中国側の発表では中国人養父母は1万人、残留孤児は4千人である。今回参加した養母は、ハルビン在住の李淑蘭さん、チチハル在住の穆文霞さん、長春在住の崔志栄さんの三人。
 中国に住んでいる元残留孤児の席静波さんは、「日本人の死体の中から赤ん坊だった私を中国人が助けてくれ、今の自分がある。養父母の恩は絶対忘れない。そして中国共産党に感謝する」と話し、また王林起さんは「養父母に二度助けられた。一度は死にそうなところを助けられ、二度目は小学校のとき、盲腸炎から腹膜炎になったが、病院で治療し、回復した。この恩に応える為、中国に残っている」と語った。葛西康男さんと庄山紘宇さんは、養父母が亡くなってから帰国した。葛西さんは身元未判明のままである。こういう孤児は約1500人に及ぶ。
 アトラクションでは緑フォーラムのメンバーが養父母に感謝の心を伝える「ふたつの祖国」を合唱し、会場では目頭を押さえる姿もあった。また、荒野座の「津軽あいや節」の踊りに見入っていた。最後に三橋副団長が「悲惨な戦争を繰り返さず、日中友好を発展させていきたい」と力強く訴えた。
 夜の交流会では荒野座によるフラメンコ創作舞踊「君をのせて」、歌「北国の春」も披露され、好評を博した。自己紹介をするなど親睦を深めた。
  
中国友諠促進会を表敬訪問
 5日は、訪中団を招待してくれた友諠促進会を表敬訪問した。出迎えてくれた陳少信・副秘書長は「今、中日関係は厳しいが、皆さんはそれに左右されず中日友好のために頑張っているのは素晴らしい事。長期的な中日友好のため、いつでも中国に来てください」と語った。
 緑の党・対馬テツ子党首から「日本の侵略に対して心から謝罪致します。日本の敗戦後、中国が日本に賠償を請求しなかった事、撫順で戦犯である日本兵士を手厚く教育してくれたこと、中国の養父母が日本人の子どもを育ててくれた事に感謝します。中国では若い人々に教育が行き届いているが日本は大変遅れている。これからも訪中して学習していく機会を作りたい」と語った。
 木村さんが「松花江上」を歌うと、陳副秘書長は「涙が出そうになった。素晴らしい歌」と語った。
 安倍政権は今、共謀罪の審議に入り、アジア近隣諸国に再び緊張をもたらしているが、日本の加害の事実を認識し、戦争反対の声をあげる事が真の日中友好を築くことである。 (山下)
  
  
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