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日本新聞 4539号記事

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日本新聞 4539号記事

 

4539号1面記事

水俣病訴訟  チッソ、国、熊本県が控訴の暴挙

 水俣病の原因はチッソの排水。国がすぐに対処していれば被害の拡大は防がれた。責任を認め被害者全員に救済措置を早急に講じるべき

  水俣訴訟大阪地裁判決は、128人の原告全員を水俣病と認め、一人当たり275万円の賠償を、国などに命じた。被害者の権利を守る画期的な判決である。
   これに対して、チッソは4日、国と熊本県は10日、判決を不服として、大阪高裁に控訴した。患者は高齢となり、一刻も早く救済されなければならない。裁判半ばに他界した方もいる。控訴は非人道的で、認められない暴挙である。

  水俣病の経緯

 1932年
  日本窒素肥料水俣工場でアセトアルデヒド製造操業開始
1945年
 日本窒素肥料がアセトアルデヒド、酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出
1949年
 水俣湾でタイ、エビ、イワシ、タコが獲れなくなる
1952年
 水俣で胎児性患者が出生。認定は20年後
1953年
 水俣湾で魚が浮上、猫が狂死
1954年8月1日
 熊本日日新聞が「ネコ100余匹が次々狂い死にした」と報道
1956年
 5歳女児が新日窒附属病院小児科に入院、この年、50人発病、11人死亡
同5月1日
 水俣保健所が「原因不明の奇病発生」と水俣病公表、これが公式確認

  チッソがアセトアルデヒド製造から24年経ってようやく、水俣病が公表されたのである。最初の発症がいつなのかは定かではない。「奇病」として偏見を持たれ、病院へも行けない状況だったのである。
 1956年11月の段階で、熊本大学の研究班は、「病気は水俣湾の汚染魚を食べたことによる」と調査結果を発表している。厚生省(当時)も「昭和31年(1956年)全国食中毒事件録」の「いわゆる『水俣病』について」という項目に、「原因食品 水俣湾内産魚介類」と記している。
 熊本県は1957年8月に、食品衛生法による水俣湾魚介類の販売禁止措置の方針を固め、8月に厚生省に可否を照会した。これに対して厚生省は「食品衛生法は適用できない」と退けたため、その後も水俣湾の魚介類による被害は拡大し続けたのである。
 こうした経緯から、原因企業のチッソと国との共同犯罪と言っても過言ではない。もちろん、熊本県の責任も大きく問われる。
 2009年の水俣病特措法は、2012年7月末の申請期限までに約3万8000人に対して、一時金210万円や療養費などを支給した。しかし、対象を、不知火海周辺の熊本、鹿児島両県の9市町村の沿岸部などに居住歴があり、チッソがメチル水銀排出を止めた1969年11月末までに生まれた人に限定した。沿岸部に居住していなくとも汚染魚を食べて発症しているし、1969年11月以降に生まれた人も発症している。
   岡山大学大学院環境生命科学研究所の津田敏秀教授は、「水俣病は魚介類を原因食品とするメチル水銀中毒症の症状とみなされる」と断定している。そして、「水俣病は国と県が食中毒事件として食品衛生法に基づいた措置を怠ったこと、水俣病の認定審査を行う医師らが食中毒症としてのとしてのメチル水銀中毒症についての知識に欠け、多くのケースで保留や棄却をもたらした」と問題視している。大阪地裁判決は津田教授の見解を重要視している。
 国は周辺住民の命を守ることより、原因企業であるチッソを守ろうとし、チッソの排水に含まれているメチル水銀が原因であることを隠した。そのために一体どれだけの人が犠牲にされたことか。国も熊本県もチッソも、そのことに何の反省もなく、控訴したのである。すべての原告に賠償を命じた大阪地裁判決は全く正しい。続く熊本、東京、新潟訴訟でも大阪地裁判決同様の判決が出たら大変だと、控訴したのだろう。
 チッソ水俣工場創業から91年が過ぎ去った。事実を認め、被害者救済を最優先にすべき時である。      (沢)

 

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