沖縄戦から80年 二度と沖縄を戦場にしてはならない
4627号1面記事
沖縄戦から80年
二度と沖縄を戦場にしてはならない
本土決戦を避けるため沖縄を捨て石にした無惨な歴史。今また沖縄を
はじめとした南西諸島の軍事基地化を進める危険な動きに歯止めを
6月23日は「沖縄戦の戦没者の霊を慰め平和を祈る日」と1961年に琉球政府立法院が「慰霊の日」に制定した。
敗戦が間近になった1945年3月末から6月末にかけて、日本軍とアメリカ軍が沖縄本島を中心に激しい戦闘をした。本土決戦を遅らせるために、沖縄での戦いを長引かせる作戦で、沖縄を捨て石にしたのだ。このため、沖縄県民は多大な犠牲を強いられ、実に県民の4分の1の命が奪われたのである。
沖縄県民を利用し見殺しにした日本軍
1944年3月22日、日本軍は第32軍を編成。この年の夏から日本軍部隊が次々と沖縄に配備。
1944年7月、日本軍は足手まといになるからと沖縄の住民を本土や台湾へ疎開させる方針を決める。学童疎開船「対馬丸」は約1700人の子ども達を乗せて8月21日、九州を目指し出発する。翌22日、アメリカの潜水艦に魚雷攻撃され、約1500人が犠牲となった。痛ましい事件だった。
1944年10月10日、米軍による「10・10空襲」は早朝から5回にわたり、約660人が命を奪われた。那覇市は約90%が消失した。
戦局悪化により、召集年齢は17歳に引き下げられた。沖縄では特例として14歳でも兵士にできるようになった。
1945年3月、沖縄の中学校、師範学校で「鉄血勤皇隊」や「通信隊」が組織され、看護要員とされた高等女学校の生徒を含めて21校の2000人以上の若者が動員された。半数以上が戦死したのである。満足な武器も食料も与えられず、次々命を奪われた若者、そして子ども達。
第32軍は首里の司令部を放棄し、沖縄南部・摩文仁へ撤退しアメリカ軍と戦うことを決め、ガマに避難していた沖縄県民を追い出した。墓に逃げて、アメリカ軍の爆撃を受けて亡くなった人達、追い詰められて集団自決させられた人たち、凄惨を極める地獄絵が繰り広げられた。今も沖縄には、一家が皆亡くなってしまった屋敷跡があちこちに残っているという。
1945年6月18日から19日にかけて、日本軍は学徒隊の生徒達に解散命令を出し、激戦地に放り出した。これにより生徒たちの犠牲は急激に増えた。ひめゆり学徒隊の犠牲者の8割は解散命令後に亡くなっている。
6月22日に自決した陸軍牛島中将は「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」と命令を出した。この命令が犠牲をさらに拡大させた。あまりにむごい命令だ。
再び沖縄を戦場にしようとする政府
政府は「台湾有事」を宣伝し、九州から与那国島までの南西諸島に次々ミサイル基地を建設した。そしてあたかも中国が攻撃してくるように、シェルターを設置し、仰々しく避難訓練まで実施している。それぞれの島から中国に向けてミサイルを設置する。これでは「有事」を作り上げることである。挑発そのものである。
アメリカはすでに経済的にも中国に抜かれている。「アメリカファースト」のアメリカはそれを認めたくない。そこでアジア人とアジア人を戦わせる、つまり対中国は日本にやらせて高みの見物というのがアメリカの作戦である。そのために日本の軍備を増強させようとしているのである。
今も日本の米軍基地の7割を沖縄に押し付けている日本。そして再び戦場にしようとしている日本。
沖縄戦から80年、今沖縄の人々は、沖縄戦での惨劇が繰り返される大きな不安を抱いているだろう。二度と戦争を繰り返さない反戦の声を、今こそ日本中に広げていく時である。 (沢)