日本新聞
石川一雄さん永眠、えん罪晴らす闘いを
4613号1面記事
石川一雄さん永眠、えん罪晴らす闘いを
「再審裁判は私が引き継ぐ」と早智子さん。不当逮捕から62年、えん罪
と闘い抜いた石川さんの不屈の生涯に学び、無罪をかち取る為闘おう
埼玉県狭山市で女子高校生誘拐殺人事件が起きたのは、今から62年前の1963年。何としても犯人を捕まえようと、警察は被差別部落に見込み捜査を行い、120人もの被差別部落の青年達を取り調べた。そして24歳の石川一雄さんを別件で逮捕し、「自白」させ、殺人犯に仕立てあげたのだ。その後、石川さんは無実を主張し、第三次再審請求をして闘い続けていた。
3月11日夜、石川さんは骨折した足の治療のため入院していた狭山市の病院で、誤えん性肺炎で容体が急変し、亡くなった。仮釈放されていたとはいえ、殺人犯のえん罪はそのままで、再審も認められておらず、どんなに無念だったことか。石川さんは「再審請求はさっちゃんが引き継いでほしい」と話していたという。妻の早智子さんは深い悲しみの中、「再審の闘いは私が引き継ぎます」と話したという。
62年の長きにわたる冤罪を晴らす闘い
1963年5月1日、埼玉県狭山市で16歳の女子高生が行方不明となり、自宅に脅迫状が届けられた。身代金を受け取りに来た犯人は警察がいることを察知し、逃げてしまった。40人もの警察が張り込む中、犯人を取り逃がしてしまったのである。翌日、女子高生の遺体が発見された。
その1か月前に、東京で4歳の男の子が誘拐され殺される吉展ちゃん事件が起きた。この時も身代金を取りに来た犯人を取り逃がすという失態を演じたばかりだった。警察に対する批判が高まる中、何としても犯人をあげなければと、殺人犯にでっち上げられたのが石川一雄さんだった。
犯行を否認し続けていた石川さんが突然「自白」したのは、警察の脅しと甘言によるものだった。甘言とは、「犯行を認めれば10年で出してやる。認めなければ、お前がどうやって死のうが何とでも言える」であり、「兄の六蔵が犯人だ、家計を支えている六蔵が捕まったら家族はどうなる」、などというものだった。自分が犯人だといえば家族も困らないし、10年で出してもらえるんだから、と「自白」したのである。
しかし、それが警察の嘘だと知った石川さんは無実を訴えた。一審は死刑判決、二審は無期懲役判決、石川さんは再審請求を求めたが、第一次再審請求も第二次再審請求も棄却。1994年に仮出獄。2006年5月に第三次再審請求、いまだに再審は認められていない。
石川さんの無実は明らかだ。
当時の石川さんは学校にもあまり行けず、脅迫状を書くことはできなかった。しかも当て字などできないし、脅迫状の筆跡と石川さんの筆跡は全く違う。
次に、石川さん宅の鴨居から発見されたという被害者の万年筆。これは石川さん宅を十数人の警察官が捜査し、3回目でみつかったという、不思議な「発見」である。さらに、被害者が使っていたインクの成分は検出されない。袴田事件で静岡地裁が指摘した「証拠のねつ造」が狭山事件でも明らかである。
24歳で逮捕された石川さんは56歳までの32年間を獄中に拘束され、1994年に仮出獄。それから今まで、えん罪を着せられたまま、無念の日々を過ごしてきた。早智子さんというパートナーの支えが石川さんを大きく励ました。そして解放同盟や支援者も石川さんの支えとなってきた。
石川さんは「裁判で無実が証明されるまで、両親のお墓参りに行かない」と決めていた。とうとうお墓参りに行けなかった。
第三次再審請求からすでに19年。再審には何の規定もない。再審が請求されたら速やかに実施されるように再審法を改正すべきである。検察の上告も禁止すべきである。
石川さんは、真実を訴え続け見事な生き様を示してくれました。私たちもその姿に学び、石川さんの無罪をかち取るまで闘い抜こう。 (沢)