日本新聞
中国人蜂起の花岡事件から80年 強制連行の事実は消えない
4629号1面記事
中国人蜂起の花岡事件から80年
強制連行の事実は消えない
強制連行された中国人労働者が過酷な労働に耐えかね蜂起し弾圧。侵略戦争での日本の加害の歴史を直視し不戦の運動を前進させよう
6月30日、大館市の十瀬野公園墓地で、花岡事件犠牲者の慰霊式が行われた。来日した遺族や市の関係者約220人が犠牲者を悼み、平和を誓った。
石田市長は「どのような状況下でも、人の自由や尊厳を奪う行為は許されない。事件を風化させず、後世に語り継ぐことが私たちの大切な使命だ」と述べた。事件の犠牲者の遺族がかけつけた。その一人である張恩龍さんは「血の教訓を忘れることはできない。歴史の悲劇を繰り返さず、貴重な平和を大切にしなければならない」と語った。
慰霊式は当時の花岡町長が個人の資格で1950年に始めた。1985年からは大館市主催で続けられている。加害の日本の行政として、誠意を持って慰霊し続けていることに救いを感じる。
花岡事件とは
花岡事件は、強制連行され鹿島組花岡出張所に収容されていた中国人労働者986人が、1945年6月30日、蜂起した事件。飢えや過酷な労働、劣悪な環境に耐えかねて、命がけで蜂起したのである。そして捕らえられ、拷問されるなどで400人以上が殺された。
放棄して逃げても、逃げおおせる保証はない。しかし、このままでは間違いなく死んでしまうと、やむにやまれず立ち上がった中国人労働者の置かれた状況を考えると、日本のやったことは余りにもひどい。そして鹿島組をはじめ、その蛮行に至った企業が今も暴利をむさぼっている。
日本は侵略戦争、植民地支配について、何の反省もないことがわかる。
花岡補償裁判の和解
日本の敗戦後の1945年9月11日、秋田地裁は花岡事件の中国人労働者11名に対し、無期懲役を含む懲役刑を言い渡すという暴挙に及んだ。1948年3月1日のアメリカ軍第8軍戦争犯罪横浜法廷で、花岡事件は人道に対する罪に当たるとして、当時の鹿島組現場責任者のうち、監視員3人に絞首刑、1名に終身刑、警察関係者2名に禁固20年を宣告したが、後に被告全員が釈放されている。1990年、花岡事件の生存者と遺族、鹿島組との「共同発表」で3項目を確認した。
1、鹿島建設は花岡鉱山での強制連行・強制労働が1942年の閣議決定に基づく歴史的事実であることを認め、企業としても責任があり、謝罪の意を表明する
2、鹿島建設は、3項目について、双方が解決に努めなければならない問題だと認める
3、被害者・鹿島建設双方は、周恩来の「過去のことを忘れず、将来の戒めとする」の精神で協議を続け、問題の早期解決をめざす
しかし鹿島は共同声明を反故にしようとした。
1995年6月28日、花岡事件生存者および遺族11名が鹿島建設を相手取り提訴した。2000年11月29日、東京高裁において、花岡事件訴訟の和解が成立した。鹿島は5億円を出資し、全被害者(986名)に補償ないし賠償を行うことを可能にした。
この和解については批判の声もあり、花岡訴訟に尽力してきた弁護士を非難する声もあった。しかし、すでに遺族も高齢であり、当事者が和解を受け入れたのだ。そして花岡訴訟のような訴訟に与える影響も大きく、被害者が勝訴する判決が続いた。企業に強制連行・強制労働の事実を認めさせ謝罪させたのは大きな成果である。
何より大事なのは、日本がかつての植民地政策の誤りを認め、侵略行為による被害者に対する償いと謝罪を明確な形で示すことである。そして二度と戦争による惨禍を引き起こさないために平和友好関係を築くことである。
今年は敗戦後80年、残念ながら日本はアメリカに追随し、戦争へと向かっている。戦争ではなく、アジアの国々にかつての侵略戦争の加害を謝罪し、そこから友好連帯の一歩を踏み出す時である。それが日本の取るべき道であり、唯一の活路である。 (沢)