日本新聞
米国の広島・長崎への原爆投下から80年
4633号1面記事
米国の広島・長崎への原爆投下から80年
投下したその年に広島で14万人、
長崎で7万人の犠牲者。東電福島第一原発事故被害を見ても核の平和利用などない。核のない世界を
1945年、今から80年前の8月6日広島へ、9日長崎へ、アメリカは原爆を投下した。世界で初めて人が住む町へ原爆が投下されたのである。広島、長崎の街は廃墟と化し、被ばくした人々は次々亡くなっていった。その年のうちに広島で14万人、長崎で7万人が死亡した。
広島に投下されたのはリトルボーイ(ウラン型の原子爆弾)で、長崎に投下されたのはファットマン(プルトニウム型の原子爆弾)であった。アメリカはこの2種類の威力を試すために、2つの都市に落としたのである。そしてABCC(原爆傷害調査委員会)を設立し、日本にアメリカの科学者や医療関係者がやってきて資料を集めた。被爆者への治療より調査を優先したため、批判された。
広島県立第一中学校生の被害を見ると、原爆の被害の大きさがわかる。第一中学校1年生307人のうち半数の150人は、爆心地(原爆が投下された地点)から900メートルの屋外で作業をしていた。強烈な熱線で皮膚は焼けただれ、全身に致命的なやけどを負った。致死量の放射線が降り注いでいたため、生き残れた生徒は一人もいなかった。
残りの半数は、爆心地から900メートルの校舎で自習していた。爆風で木造の校舎は押しつぶされ、生徒たちはその下敷きになった。熱線で建物に火がつき、生徒たちは「お母さん」などと叫びながら死んでいった。数十人は脱出して家族のもとに帰ったが、1週間後に髪は抜け、歯ぐきから出血するなどの症状が現れた。全身で内出血が起こり、体中に斑点が生じ、腸の内部が崩れ、下血が始まる。生徒たちは衰弱し、亡くなっていった。19人が一命をとりとめたが、その後も苦しみは続いた。高校3年生で出血が止まらずに亡くなった人、大学4年で血液異常が起き、亡くなった人もいる。その後も次々亡くなっていった。被爆者の苦しみは一生の苦しみである。
原爆で行方不明になった人も多い。広島市の原爆供養塔には、引き取り手のない7万柱の遺骨が今も安置されている。
核のない平和な世界に
アメリカでは“戦争を終わらせるために、原爆投下は正しい選択だった”と答える人が、10年前には56%で、今では35%にまで減っている。被爆者の声に耳を傾け、その苦しい人生に寄り添い、核のない世界を求める声が高まった。それが被団協のノーベル平和賞受賞につながった。
ところが今日本政府は、アメリカに対して「もっと核の傘を強調してほしい」などと言っている。原爆を投下したアメリカに、核で脅してほしいと頼んでいるのである。これが被爆国の政府のやることか。
そして「核の平和利用」など不可能であることが、東電福島第一原発事故が明らかにした。事故による被ばくはもちろん、事故収束のために避けられない被ばく作業、それは今も続けられている。原発は事故がなくとも、日常的に放射性物質を環境中に放出している。ひとたび事故が起きれば、制御できない大惨事を引き起こす。
政府は福島第一原発事故に教訓を得ることもなく、“原発のエネルギーを最大限に活用する”エネルギー策を打ち出している。そのために、老朽原発の再稼働、ひいては新設へと動いている。原子力規制委員会が科学者集団ならば、原発から撤退するよう政府に訴えるべきである。ところが、“新規制基準”なるものに「合格」だと、再稼働のお墨付きを与え続けている。実に犯罪的だ。
原爆投下から80年、今日本は原発からの撤退へと大きく舵を切る時である。 (沢)