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2023.11.15

日本新聞

日本新聞 4543号記事 水俣病問題は終わっていない

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経済成長を優先し、水俣病患者を切り捨て、チッソを守った政府。人命を奪い、自然を破壊し、生業を奪う公害の構図は原発と瓜二つだ

 水俣フォーラム主催の水俣病・福岡展が10月7日~11月14日に開催された。改めて、水俣病とは何かについて考えるために11月2日、水俣展に参加し、3日は、水俣病が発症した熊本でも現地の相思社の方に案内していただいた。そして、今なお裁判を続ける胎児性水俣病患者のお話を聞く中で、水俣はまだ終わっていないことを痛切に感じた。

 垂れ流しを放置し被害拡大

 水俣病は、日本窒素肥料株式会社(後にチッソ株式会社、以下チッソとする)の工場排水のメチル水銀に汚染された魚介類を食べたことによって起きたメチル水銀中毒である。メチル水銀は耳かき半分ほどで人を殺す猛毒である。
 体に入ったメチル水銀は脳神経を犯し、体の平衡感覚や知覚(触覚、視覚、聴覚)の部分が壊される。破壊された脳は治ることがない。
酢酸や塩化ビニール等の原料となるアセトアルデヒドを製造する時、副生されたのがメチル水銀である。
 チッソがアセドアルデヒドを製造開始したのは1932年。それを排水溝からたれ流したために魚貝の宝庫である不知火海がメチル水銀に汚染された。
 魚の死体が浮かび、猫が狂い死にし、人も発症した。狂ったような症状になり、意識不明になり、1カ月以内に亡くなる重傷者や、母親の胎内で、メチル水銀に侵されて生まれる胎児性水俣病患者も発生した。奇病、伝染病とされたが、脳の神経疾患として水俣病が公式確認されたのが、1956年(昭和31年)である。
 1965年新潟県阿賀野川流域で、昭和電工の流したメチル水銀で水俣病が発生したことで、1968年、ようやく水俣病を公害病と認定した。その時工場の排水も停止した。実に36年間も放置したために、被害が拡大した。
 チッソの垂れ流したメチル水銀の量は、1億人を2回殺してもなお余りがあるといわれている。
 どうしてそれが許されたのかである。

 チッソを守った政府

 チッソは日本を代表する化学工業企業であった。戦後の日本の経済成長を支えた大黒柱の一つである。
 1959年、熊本大は「原因はチッソ工場排水のメチル水銀」と公表したが、政府は、経済成長を止めるわけにいかないと、政府見解を先延ばしし、チッソを守った。
 つまり、日本の経済成長のために、水俣病患者がどんなに死のうが、苦しもうが、経済成長を優先した。
 そして、チッソも原因を認めず「戦前の海軍の爆薬が原因」とした。原因がわかってからも想定外とした。また、排水経路を百間排水溝から水俣湾に垂れ流すのを変えて、八幡プールから、不知火海に変更したために更に被害が拡大した。
 また、1959年に患者に「見舞い契約」をし、水俣病を終わらせようとした。大人10万円、子ども3万円を渡し、チッソが原因だとわかっても、新たな補償を要求しない約束をさせた。汚い手口である。
そして悲しいことに、チッソ城下町である水俣では、患者に寄り添うのではなく、市長、市議会、商工会議所、農協、チッソ第二組合(第一組合は患者側に立ったが、つぶされてしまった)、地区労など総がかりで、患者に襲いかかり、チッソを守った。今でもその分断の傷跡は深い。「もやい」(つながり)を訴えても、なかなかうまくいかないという。
 「今さえ、金さえ、自分さえよければいい」という考え方は、経済成長時代から作られてきたものである。
 誰と手をつないでいくかの視点がなければ連帯はできない。

 なぜ今も裁判が続くのか

 水俣病患者は20万人以上と言われているが、22年時点で、認定患者は熊本県で1791人、鹿児島県で493人の計2284人のみである。それに新潟県716人を含めて3000人しかいない。
 政府は、全汚染地域の住民健康調査を行わず、ひたすら認定患者の数を限定してチッソを守った。
 ところが、患者は、極貧の中、病苦を抱えながら、生活や病気の補償を求めて裁判や座り込みでチッソと闘ってきた。1995年村山内閣が水俣病解決策として一時金260万円と医療補償をした。また、国の責任を認める判決が出て、2009年に水俣病特措法として一時金210万円と医療保障を行った。認定患者含めて、8万人が水俣病被害者となった。
 しかし、「特措法」でも、地域や年代で区切られているために補償に漏れる人や医療保障だけでは生活できないので、認定患者のように年金で補償すべきであると裁判は続いている。
 政府はチッソを優遇し、融資しているが、患者を守り、補償すべきである。
 水俣湾は、埋め立てられ、公園として整備されたが、埋め立て地の下には高濃度の水銀へドロがある。
 命を奪い傷つけ、自然を破壊し、生業を奪う公害と原発は全く同じ構図である。経済優先ではなく、命こそ大事にすべきである。   (對馬)